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チームインサイト:JLOCチーム
昨年10月、鈴鹿サーキットに差す夕日が落ち始めた頃、ランボルギーニは日本のスポーツカーレースの頂点で、歴史的な初優勝を達成するまであと数キロという状況でした。
その道のりは長く、過酷で、ときには報われないこともありました。
日本最高峰のレースシリーズであるSUPER GT(旧全日本GT選手権)に毎年出場してきたジャパン・ランボルギーニ・オーナーズ・クラブのチームが、ついに悲願の頂点に立ちました。88号車のランボルギーニ・ウラカンGT3 EVO2を駆る元嶋佑弥選手と小暮卓史選手の活躍により、SUPER GT300クラスのタイトルを獲得したのです。
その名が示すとおり、JLOC(ジャパン・ランボルギーニ・オーナーズ・クラブ)は何十年にもわたってランボルギーニの伝説とともに歩みを進めてきました。始まりは1980年、ランボルギーニ・ミウラのオーナーが集まり、クラブを設立した年に遡ります。
「JLOCは1980年に設立されましたが、諸事情により1985年に一度活動を休止しました。」と語るのは、1994年にレーシングチームを立ち上げたJLOC会長の則竹功雄氏です。
「私は設立メンバーの一人でしたが、以前の会長からJLOCの運営を引き継いでほしいと頼まれ、1986年に活動を再開しました。当時、日本には正規ディーラーがなく、スペアパーツの入手も困難な状況でした。」
「1995年頃には、登録会員数が180名ほどで、会員の所有車両は約400台に達していました。その後、道路交通法の改正で集団走行が禁止されるなどがあり、私たちはサーキット走行に切り替えることになります。昔からのメンバーや新たな仲間の加入に助けられながら、今もレース活動を続けています。」
創設年にちなんで、チームのメインのカーナンバーには現在も「88」が使用されています。そしてJLOCのレース活動30周年の年に、元嶋選手と小暮選手の活躍により、チーム初となるスーパーGTタイトルをこの「88号車」がもたらしたことは、まさにその番号にふさわしい快挙でした。
「SUPER GTには31年の歴史があります。」と則竹氏は続けて語ります。「私たちは1994年の第1回大会から参戦していますが、当時はほとんど趣味のようなもので、観客もほんの数人しかいませんでした。今では毎年45万人以上の観客がサーキットを訪れ、レースはテレビやYouTubeなどさまざまなメディアで放送されており、ランボルギーニがトヨタや、日産、ホンダと競い合っています。」
「とてもやりがいを感じており、とても充実しています。何十年も前、まだ優勝できておらず、ランボルギーニがレーシングカーを製造していなかった頃には、トヨタやホンダ、日産の車でレースに出場することも考えました。何回も頭をよぎりました。」
「しかし、ランボルギーニで戦うことが自分の使命だと感じていたので、踏みとどまったんです。だからこそ、今回の優勝の喜びは格別なものになりました。」
チームの起源がロードカーにあることを考えると、JLOCの初めてのレーシング活動が伝統を受け継ぐ形で始まったのは当然のように感じます。1994年シーズン、富士スピードウェイで行われた開幕戦では、若干の改良を施したカウンタックでエントリーし、ドライバーには和田孝夫選手と池沢さとし選手を迎えました。両者が駆る車は見事な走りを見せ、同年に行われた5戦のうち2戦で完走を果たしました。中でも仙台レースでは8位入賞という最高の結果を出しました。
しかし翌年からJLOCとランボルギーニの工場の関係が深まり始め、チームがクラス優勝や総合優勝を競うために、認可を受けた専用モデルが製作されました。
「(1995年当時)ランボルギーニの社長であるM・キンバリー氏、CEOのG・ベントリーニ氏とG・ジロッティ氏には本当にお世話になりました。私のためにディアブロ・イオタを3台も制作してくれたんです」と則竹氏は続けます。
「当時、私たちはGT選手権に参戦することができました。最初の半年間は、ほぼ市販仕様のカウンタックでレースに出場し、その後ランボルギーニがディアブロGT1、ムルシエラゴRGT、ガヤルド、そしてウラカンを製作してくれました。そのおかげで、私たちは31年間レース活動を続けることができています。
「今後もランボルギーニとの協力関係が続くことを願っています。」
全日本GT選手権時代、JLOCは1994年のカウンタックを始めとするさまざまなモデルで参戦してきました。成果を出すことができなかったディアブロ・イオタでの2シーズンと、ディアブロGTRでの1年を経て、1998年には新たにディアブロGT-1が登場しました。6リッターV12エンジンを搭載したこのマシンは、2001年のレギュレーション変更に合わせて再認可を受け、ムルシエラゴR-GTおよびRG-1に交代するまでの7シーズンにわたって活躍しました。
この頃には全日本GT選手権が終了し、SUPER GTへと変わっていました。新たなレギュレーションの導入は、ランボルギーニとJLOCが生まれ変わる契機となりました。GT300仕様の導入により、ムルシエラゴRG-1はそのポテンシャルをいきなり発揮し、2006年の開幕戦でマルコ・アピチェラ選手と桧井保孝選手のコンビによって勝利を収めました。これはムルシエラゴにとって世界初の勝利となったのです。
この重要な勝利は、より大きな挑戦への礎となり、JLOCはその後、ル・マン24時間レースに4大会連続で出場しました。世界で最も有名な耐久レースのGT1クラスに参戦し、JLOCの名は国際モータースポーツの舞台に刻まれました。
残念ながら結果は期待に沿わなかったものの(最高成績は2006年の8位)、則竹氏にとってその経験は強く印象に残るものでした。
「1996年と1997年にランボルギーニ・ディアブロSVRがル・マンのサポートレースに出場した姿を見て以来、いつか本戦に出場したいという思いをずっと抱いていました」と則竹さんは語ります。
「1996年には、ディアブロGT1プロジェクトの実現を当時の社長であるディ・カプア氏とテクニカルディレクターだったチェッカラーニ氏にお願いしましたが、残念ながら1台しか完成せず、ル・マン出場とはなりませんでした。
後にアウディのペーフゲン社長とランボルギーニのグレコ社長の協力を得て完成したムルシエラゴRGTは、本当に美しい車でした。あの高音の排気音と、夜に真っ直ぐ響く音色は、忘れることはないでしょう。あれは、心から満たされる瞬間でした。」
日本に戻ると、ムルシエラゴの後を継いだガヤルドが力強いマシンとして活躍を続けましたが、本格的にタイトル争いが現実味を帯びてきたのは、ウラカンがSUPER GTに登場してからのことでした。
JLOCは2023年シーズン第2戦までGT3 EVOで参戦しました。勝利を挙げることはあったものの、シーズンを通して勢いを維持することはできませんでした。しかし、その流れが変わり始めたのがGT3 EVO2の登場です。2023年シーズンの最終戦が行われたモビリティリゾートもてぎで優勝し、2024年にはついにすべてのピースが揃ったのです。
元嶋選手と小暮選手は4勝を挙げ(富士、オートポリス、もてぎ、鈴鹿)、シーズンを通じてチームとマシンの実力を証明し、ダブルタイトル獲得の成功を掴みました。
特筆すべきは、オートポリスで15位、もてぎで17位という後方グリッドからの逆転勝利に見られるチームのレースペースと、勝利を狙えるベストポジションにドライバーを送り込んだJLOCチーム全体によるピットストップ戦略でした。
シーズン序盤のタイトル防衛戦は厳しい立ち上がりとなったものの、2025年の連覇に向けたJLOCの決意はよりいっそう強いものになっています。
「ドライバーもチーム全体も、以前にも増してモチベーションが高まっています。」と則竹氏は付け加えます。「また、新たにトップエンジニアとデータエンジニアが私たちのチームに加わりました。小暮選手と元嶋選手の両名は、再びチャンピオンの座を見据えています。」
「JLOCチームは今、非常に強力です。ランボルギーニを知り尽くしたトップドライバーやメカニックが揃っています。
2025年は、(マレーシアを含む)SUPER GTの8レースに出場予定です。可能であれば、鈴鹿の1000kmレースにも参戦したいと考えています。」
「チームとしてもモチベーションが高く、8名の社員と、10名のメンテナンスやレース業務を担当する外部協力者が支えてくれています。私は常に社員に対し、『私たちの目標は、ナンバーワンよりもオンリーワンだ』と言っています。」
