• 1963 - 1964

    「Lamborghini Automobili ランボルギーニ-自動車」の歴史は、1916年おうし座生まれのフェルッチョ・ランボルギーニによって1963年に始った。衝動的でありながら、強い意志をもち、仕事のできる男。類いまれなる企業を誕生を導いたのだ。大戦直後、フェルッチョ・ランボルギーニはトラクター製造工場を設立、精力的かつ決意に満ちた活躍で、その分野でのベンチマークとなっていった。

    60年代前半、フェルッチョ・ランボルギーニは、すでに強力かつ明確な考えを持つ成功した男と認められていたのだが、ファラーリに対抗するスパーカーを作ると宣言したときは、さすがに、狂っているといわれたものだ。その類いの車を製造することは、一般的には説明不可能なほどの贅沢と見なされ、暗黒の闇を中を進むようなもの、それまで築いてきた財産をどぶに捨てるようなものだとも言われた。

    しかし、彼は1962年までスパーカープロジェクトの立ち上げに向けて動き出し、ボローニャから25キロ離れたSant'Agata Bolognese 村に広大な敷地に巨大で近代的な工場を建築し、1963年「Automobili Ferruccio Lamborghini」フェルッチョ・ランボルギーニ自動車会社を設立した。

    トラクター会社での経験は、スパーカー製造というの目的のも有効に利用され、当時自動車業界では見られないような非常に合理的なシステムを作りあげたのだ。明るく巨大な中央施設は、事務棟に隣接し、管理職が常に製造状況をコントロールできるようななっていた。このシステムはフェルッチョ・ランボルギーニ自身のお気に入りだった。というのも、フェルッチョ・ランボルギーニは自分の構想通りにことが進んでいないと思えば、自ら作業にかかわることを厭わないタイプの男だったからだ。

    最初の車は、工場建設後数か月で誕生した。お披露目は、1963年11月初旬、当時最重視されていたトリノのモーターショーであった。

    デビューでも、フェルッチョ・ランボルギーニは明確な考えを抱いていた。エンジンはイタリアで製造された美しい12気筒であることを臨み、当時最新のフェラーリのエンジンを制作したジョット・ビザリーニに担当させたのだ。ボディー製作には、将来を待望された若いエンジニア2名を採用した:ジャンパオロ・ダッラーラとジャンパオロ・スタンツァーニだ。

    作業は膨大でも、時間は限定されていた。しかし、そんな状況の中で生まれた350 GTVは、デビュー直後から傑作といわれた。

    その翌年1964年は、ランボルギーニ社にとって、一層重要な1年であった。350 GTが誕生したのだ。350 GTの不可欠かつ即時の進化バージョン400 GTは、120台製造された。4リッターエンジンと自社で初めて設計されたギアチェンジを搭載していた。当初は2人乗りであったが、その後、4人乗りの400 GT 2+2へ進化し、273台製造された。

  • 1965 - 1966

    1965年10月から翌年6月までに、ランボルギーニ社は驚愕的な数の最新作を発表した。プロトタイプ3500 GTZ(Zagato工場制作)、350 Spyder Touring、ネリとボナチーニ担当の Monza 400 はほぼプロトタイプといえるような1台のみ製造された車であったが、トリノのモーターショーのブースに陳列されたこれらの車のシャーシの奇抜さは、当時の自動車業界で大きな衝撃を与えた。

    このシャーシの作製は、フェルッチョ・ランボルギーニが採用した若手のエンジニア、ジャンパオロ・ダッラーラとジャンパオロ・スタンツァーニの情熱の賜物といえよう。彼らは、それまでの古典的なGT車を公道用に改造するのではなく、本格的なカーレース用の車を少々一般化させたのものを作ろうと考えたのだ。彼らのプロジェクトは、400 TPとして暫定的に発表され、400 GTの12気筒4リットルエンジンは、横向きにコックピットの後ろにギアボックスと独自ユニットとして単一鋳造で製造されたエンジンのベースに搭載。シャーシは、曲げられ、溶接された板金製で、体重を減少させるために有孔されていた。逸話では、フェルッチョ・ランボルギーニはこのプロジェクトを見たとたん、ゴーサインをだし、自分たちの提案がこんなにハッピーエンドの至るとは夢にも思っていなかった若い2人のエンジニアは、驚きを隠しきれなかったといわれています。フェルッチョ・ランボルギーニの予測の唯一の間違いは、「車とはこうあるべきだブランドの良い宣伝になるから」と、奇抜な車を続けたことであろう。実際には1年に50台以上の車が購入されることはなかったからである。偉人も、時には間違いを犯すものだ。シャーシは早いスペースで制作され、1965年のトリノのモーターショーで展示された。

    このタイプのシャーシ、フェルッチョ・ランボルギーニの才能に確信を持った人物は、ヌッチョ・ベルトーネだ。ベルトーネが引き入るトリノの自動車工場は、自動車にもエンジンにも精通した組織だ。ベルトーネは、斬新なシャーシを目の当たりにし、フェルッチョ・ランボルギーニに対し、「私は君の足にあった靴を作ることができる」と言ったのだ。堅い握手を交わした2人は、こうして、未踏の冒険を始めたのだ。

    ベルトーネの考えを実現する役割は、マルチェッロ・ガンディーニが担うことになった。ランボルギーニ社制のシャーシに適した車体を作り:センセーショナルでユニーク、攻撃性と優雅さのミックス、独創的でありながら上品な、 比類稀なるスタイルを作り出したのだ。それがMiuraだ。

    この名前の由来は、誰も知らない。フェルッチョ・ランボルギーニは、なぜ、スペインの闘牛伝説にもなっている、この並外れた力を持った雄牛になぞらえたかを誰にも語っていないのだ。しかし、おうし座生まれの彼が、誇高い自社のロゴに雄牛を使用し、新たな作品に牡牛牛の名を用いた理由は、想像に易い。闘牛の名前 Eduardo Miura を車につけることはごく自然なことだった。驚きなのは、世界的にも大きなインパクトを与えたラボルギー二社製造の最初の車の名前に、彼は本能的に最良かつ最適な名前を選んだということだ。

    雄牛Miuraは、その道の達人に言わせれば、ただの雄牛ではないそうだ。より勇猛で、有能、軍隊的に言えばより凶暴な、戦いのための雄牛なのだ。闘牛士たちは自書の中でたびたび雄牛Miuraの紛れもない視線について語っている:真の戦闘に挑む視線、抜け目のなさそしてその力強さについて。稲妻で刻まれた5つの文字、これ以上ふさわしい名前はほかにないであろう。

    Miuraの生産作業は多忙をきわめた。ガンディーニは後談として、1966年のジュネーブのモーターショー展示に間に合わせるため、10月以降工員全員が1日の休みもなく24時間体制で作業に当たったと語っている。奇跡とはこのこと指すのだろう。それまでは実験的プロトタイプとして展示されたすべてのシャーシは、4ケ月の間に世界でマットも美しい車に進化したのだ。

    ジュネーブのモーターショーの女王はまさにMiuraであった。意気込みは最高レベルに達した。ランボルギーニはMiuraをモンテカルロのグランプレミオに参加させたのだ。一般車はもとより、特別なスポーツカーであればなおさら、グランプレミオはモータースポーツ界で最もエキサイティングなイベントというよう。週末の午後、Hotel de Parisの前に止められたフェルッチョ・ランボルギーニのオレンジ色のMiuraを見ようと、カジノ広場からあふれんばかりの人だかりが押し寄せた。やる気、情熱、そして車への発注は坂上る一方であった。単に圧倒的としか言いようにない成果だ。

  • 1967 - 1968

    1967年10月、トリノでのあいまいなデビュー後わずか3年で、ランボルギーニは画期的な作品をシリーズをモーターショーで発表。今回発表されたシリーズは真に卓越した作品ばかりであった。350 GTも公式にはまだ購入可能であったが、実際にはすでに製造されていなかった。400 GT 2+2 Coupé と Miuraの黄金のペアにより、企業としてはまだ若いランボルギーニ社のブースに、業界の専門家を集まり、一夜にして自動車関係の雑誌の寵児となったのだ。Carrozzeria Touring もモーターショーに合わせて作品を展示したが、それがこの権威ある会社の歴史の中で最後の行為となった。400 GTのフロントエンジンとシャーシに触発され、生まれたオリジナルのフライングスターがそれである。

    1967年にはいり、ランボルギーニはようやくその未来を楽観的に見ることができるようになった。Miura購入の注文は雪崩のごとく集まり、同社は経済的にも潤いはじめた。しかしそれ以上に貴重なのは、同社に対する関心の深まりと宣伝効果の向上であった。この点においてはランボルギーニは目的を十分に達成したというよう。このような車は、愛好家の心と魂を激しく揺さぶる運命を持った作品なのだ。ランボルギーニは、自動車業界のシンボル的なネームとなり、過剰のエンブレムであり、永遠に高まりを求め続け、先入観や規則に縛られることなく常に向上を改善を続けるける象徴となったのだ。このようなアプローチは、まじめで成熟したモデルである400 GTの多数の愛好家を妨げることはなく、販売実績を伸ばしいくのだが、Miuraにより同社は独創的で卓越した会社としての基盤を築いたのである。

    この年はもう一つ特別な出来事があった。それは、ベルトーネとガンディーニのアイデアによるものであった:リアエンジン搭載の驚愕的な4人乗り自動車は、センセーショナルな垂直開口ドアが取り付けられていた。垂直開口ドアのコンセプトは、当初Marzalと呼ばれた革新的モデルに登場、その後徐々にランボルギーニ社のトップレベルの車のシンボルとなっていくのである。Marzalは一般行程での製造を目的としたものではなかった。それでも、Marzalは数のオートショーのスターとなり、様々な国際雑誌の表紙を飾ったのだ。しかも、同年、Marzalはモナコのレーニア大公より、グレース王妃横でモナコグランプリの開会宣言の場を飾る車として選ばれた。ここでも、フェルッチョ・ランボルギーニが宣伝効果を得るための特殊な才能を持っていることが証明された。

    ダラーラとスタンツィーニがニュージーランドのテストドライバーボブ・ウォレスの参加で車の生産レベルを向上させるための作業を続けているとき、フェルッチョ・ランボルギーニは常に新しいアイデアを閃かせながら新モデルの発表を推進していた。それは決して虚栄心からくるものではなかった。ランボルギーニは1968年ブリュッセルのモーターショーでMiura Roadsterを発表。それによりコンバーチブルシリーズに対するクライアント嗜好のマーケティングの機会を得たのだ。当初の好評にも関わらず、このモデルに対する購入注文は少なく、展示用のプロトタイプの傑作のみが残り、生産につながることはなかった。同年3月のIslero GTのプレゼンテーションも重要な出来事といえるであろう。1968年2月16日マスコミ向け公式発表。価格は6450000リラとかなり高額であった。しかし、300 HPエンジンとコンフォートと上級のつくりを追求したインテリアは、Islero GTの一流の名前にふさわしいものであった。このGTこそが、ランボルギーニが求め続けてきた究極の車であった。400 GTの自然な進化形。しかし、Carrozzeria Touringの閉鎖により生産は停止されてしまった。Islero GTは以前はエレガントで素晴らしいデザインのCoupé 2+2であり、400と同じメカを搭載していた。しかしこの車の販売台数も期待以上に伸びなかった。その理由は、ランボルギーニ社の顧客はMiuraタイプのモデルに慣れ親しんでいたからといえよう。

    一方で、ジュネーブのモーターショーでは、新しいサクセスがランボルギーニを待ったいたのだ。Marzal からインスピレーションを得たEspadaは、フロントエンジンと4人乗りの快適なシートを乗せた画期的なタイプのツードア車だ。2650ミリメートルのホイールベースで、オリジナルで革新的なスタイルを誇っていた。これは、マルチェロ・ガンディーニ製作の作品の中で、おそらく創造性の点で究極の表現を極め、最も長い期間好評を得た車であった。独創的で革新的な車Espadaは、過去を一切切り離し、大きなリヤウィンドウからトランクに直接つづき、単一のブロックとして開かれた大規模なエンジンフードプレートを通過すると、低テーパウエストラインが流れ、リアホイールアーチはボンネットNACAダクトの一部と車輪を一部かばーするという斬新なデザインだ。購入注文はうなぎのぼり、ランボルギーニ社の名前はEspadaが力強く打ち出すコンセプトに裏付けされるようになった。

  • 1969 - 1971

    物流と組織の問題が直面しながらも、誰ひとり手をこまねいているものはいなかった。1969年3モデル(Islero、Espada、Miura)の生産ラインは開始されたばかりであったが、さらなる改良が検討され始めた。最重視されたのは、一連の改良項目の承認を受けることだった。それはMiuraに対する改善作業で、全く新しいバージョンへ変換させることだ。そしてついに1968年11月トリノのモーターショウでVersione Sが発表された。新たなMIURAは20以上馬力を増した370 HPエンジンを搭載してた。この車はパワーウインドウを搭載しており、内装もオプションとして革張りやエアコン(当時の欧州ではまだ奇妙なものと感がられていた)を選択できるなど、ゴージャス感を考慮した。車体の後方につけられた矢印を模った金属製の小さなS字や本のわずかなクローム仕上げ部分などに以前のバージョンの面影が残されていたが、その他は一新され、それまでのMiuraはここでキャリアを終えたのだ。Islero GTもその後改良がもたらされ、馬力向上と完成度がより改善された。それが、1969年5月31日に発表されたGTSだ。1969年はランボルギーニ社の車種の暫時的な安定化が図られた年であった。


    Islero GTは生産数としてはかなり控えめな数(Islero GTとIslero GTSで225台)で静かにシーンを残しました。Miura SとEspadaの生産台数は徐々に増え、Serie IIとして改良更新され、ブリュッセルのモーターショーで公開された。350 HPエンジンを搭載した新シリーズの乗り心地は一層改善され、最も強力なベンチレーテッドブレーキを使用、ダッシュボードも従来型より改善された。この年はランボルギーニ社のみでなくフェルッチョ・ランボルギーニにとっても、輝かしい1年で、同社の歴史初めに自らが示した目標を達成した年といっても過言ではない。1970年1年間で228台のEspadaが購入された。このように特別でまた高価な車の販売台数としては驚異的な数字である。

    ランボルギーニは4人乗りEspadaそして2人乗りのMiura、そしてその中間の2+2を追加することが不可欠であると考えていた。そうすることでイタリア・グランツーリズムタイプの究極のアリーナを表すことになると確信していたのだ。ベルトーネはEspada の様々なエレメンツを搭載したIsleroの進化タイプをもって、その要求に答えた。それは、ランボルギーニの考えを肉体化したものであった。こうして、Jaramaが誕生した。この新車の1970年ジュネーブ・モーターショウでの優雅なデビューは、ランボルギーニ愛好者たちに特別な感銘を与えた。

    当時ランボルギーニは、他の自動車会社のデザインや哲学を超えた、過剰のシンボルとして世界レベルで認識されていた。合理的で一般受けするような普通の車を作ったところで、自社のカラーの反映にはつながらず、また期待を裏切る結果になってしまう。1970年新たな巨大プロジェクトが発表された。根本から革新された全く「違う」タイプのランボルギーニである。それは、P250 Urraco。この新車には、再び闘牛の名前が与えられたのだ。UrracoにはStanzaniが設計したシングルカムシャフトへの分配システムを持つ2.5 リットルエンジンが搭載された。 これは、(イタリアのスーパースポーツカーの基準を考慮して)大規模生産を可能とする要項に基づいて設計された。優れた性能の車でありながら、Miuraよりもはるかに低い価格で販売できることを目指し、紙の上でのみであったが、ベルトーネによって設計された魅力的なライン生産計画であった。

    この新型車の製造にあたり、ランボルギーニはSant'Agataの工場を拡張し、それまでの建物の後方に500m平米の新しい施設を建設させた。展望は非常に楽観的でした:この新車は1970年10月のトリノモーターショーで発表され、すぐに大好評を得、注文を雨あられのように舞い込みました。

    ランボルギーニの歴史にとって、またランボルギーニのファンにとってカーレース用のMiuraの誕生は重大な出来事として位置づけられ、ニュージーランド出身のドライバー、Bob Wallaceの存在もあり、実現することができたといえよう。それはJotaのことだ。闘牛関係の名前ではないが、この車の名前もまたスペインテイストだ。Jotaはスペイン特有のダンスの名前である。ネームの変更を決して偶然ではない。Wallaceの役割は、他のデザイナーのように美的な部分に係るだけのものではなかったのだ。彼は、Miuraのメカ構成部分のみを利用してレースカーを作ることを計画した。特にエンジンは横向きに後方中央位置でボディワークの一般的なラインに設置された。シャーシは一新され、剛性をより向上させるため管状で曲状金属薄板製、溶接、接着されていた。車体はアルミ製で、シャーシは著しく改良され、エンジンは440 HP、 8500回転 /分まで強化された。

    890 KGまで軽量化が図られ、わずか3.6秒で0キロから毎時100キロまで加速が可能となり、驚異的なパフォーマンスを誇った!Jotaの外装は一目で見分けがつくほど独創的になった。プレキシグラスカバー製のヘッドライト採用や、特に後方のホイールハウジングの広がり、ボンネット上のグリルがなくなり、小さなスライド式サイドウィンドウや典型的な合金ホイールも除去された。紛れもない、超高速かつアグレッシブ。この車は、レース界にランボルギーニをエントリさせるために誕生した完璧な車だ。しかし、不幸なことにJotaはその後の展開を見ることがなかった。だが、その時期、油圧と他の部品の分野で他の工業活動を発足させたフェルッチョ・ランボルギーニは、通常の栄光程度で満足しなかった。 彼は、自社の技術者を寛容に受け入れ、励まし続けMiuraのフルレンジを導入した新型モデルを作り上げるに至った。(Jota改良の経験に触発)それが、1971年ジュネーブモーターショーで発表されたこの伝説的なモデル、SVである。

    素晴らしいモデルチェンジでありながら、1971年ジュネーブモーターショーで発表されたSVはあまり注目を浴びず、ほんのわずかな人間だけが完璧なまでの完成度を誇るランボルギーニ社のスパースポーツカーSVの重要性を感受したのみであった。その理由は簡単だ。その年のモーターショウでは、SV以上に素晴らしい壮大な作品が展示され、人々の関心はそれに流れていたのだ。それは、ランボルギーニとベルトーネ双方の才能のコンビネーションから生まれた車だ。Stanzani とGandini信頼の高い2人の男たちによって記録的な速さで生み出された車。このセンセーショナルな車がLP 500だ。「Countach」という名前のほうが一般的だろうか。

    革命的なまでの美しいラインを持ったこの車の登場に、来訪者たちは言葉を失い、感嘆のため息を漏らした。優雅なフロントに合わられるアグレッシブさ、ジョイントなしでフードに取り付けられたフラットなフロントガラスは屋根との境界がないように端から端まで接続部分なしで伸び、エンジンコンパートメントは、車体の後部パネルにフェンダーからの開始単一緩やかな曲線を形成するまで継続し、驚くべきかつ革新的なこのコンセプトで完全に新しいスタイルを特徴づけていた。ランボルギーニは、規制のルールを覆すことに成功したのだ。

  • 1972 - 1973

    世界情勢、特にイタリアの社会情勢を反映して、ランボルギーニ社も変革を余儀なくなれていた。所有権制御に関して公然と異議を唱えた労働組合運動の高揚に従って、北イタリアの自動車産業を中心とする多くの工場で問題が発生し、、適切な組織運営がますます困難となっていった。ランボルギーニは、それまで、直接的に指示をあたえ、家父長的に、時に厳しく、しかし 常に注意深く、会社をコントルールすることに慣れていたため、この状況は耐え難いものとなった。ランボルギーニは1972年Georges-Henri Rossettiに自社の株式の過半数を売却、その後、友人であるRené Leimerに残りの株式をすべて売却してしまった。創立から8年間にわたる爆発的な発展を指揮したランボルギーニの創始者は、ついに、同社のレールから永遠に離れることになったのだ。

    しかし、会社はフル稼働で運営を続けた。1972年P250 Urraco、 400 GT Jarama、400 GT Espada、P400 Miura SVのフル生産を迎えた。この年、期待を裏切る販売台数を向上させるためJaramaのエンジンは365馬力に強化され、Jarama Sへ進化した。1972年は当初速度低下などの問題があったUrracoも正式な生産体制に入った。同年10月にはSバージョンも登場。翌年、Countachのプロトタイプを進展させて小規模の生産体制開始を待っている間、Espadaは一層の改良を受け第3シリーズとして1972年10月に発表されるに至った。新しいホイール、ボディ全体のディテールの向上、ダッシュボード、センターコンソールとさまざまなコンポーネントは、この成功した第三のシリーズを特徴付けた。これこそが、この優れた4人乗り自動車のの進化の最終ピークであった。だからこそ、今でもまだ世界中のファンから大きな関心を集めているのだ。生産台数は1226台を数えた。この数字はハイクオリティーな製品ゆえの高額な価格帯をもつ同社にとっては驚異的な数字であった。Countachの生産はLP 400と呼ばれた。V12エンジンはコックピット後方に縦置き搭載、理想の排気量4リットル(3929 cc)に設定、1973年のジュネーブのモーターショーで紹介された。真のCountachシリーズは、1973年までである。パリの展示会で公開されたverde brillante (明るい緑色)のモデルカーが最後で、現在はランボルギーニ博物館に展示されている。後方の巨大なワイパーを搭載した最初のCountachである。1974年の製造モデルはCountach, Espada Terza Serie, Jarama S、 Urraco Sである。一方で世界情勢は刻々と変化していた。オイルショックに起因して1973年アラビアとイスラエル間の戦争が勃発。石油燃料の供給への不安が広まった。ランボルギーニ社は、スーパーカー部門でも極端なまでの究極の一角に位置する会社であったため、このオイル危機で大きな打撃を受け、それに対してできる範囲で対抗しようとしていた。Urracoの2つの新モデルは、すなわちP250シリーズの細分化であった。2リットル (P200)タイプは、SOHCエンジンを搭載ただし車両規定内に収メるために排気量を多少小さくした。一方3 リットル (P300)タイプはダブルオーバーヘッドカムエンジンで、馬力も250まで強化。その時期問題視されていた部分を克服しようと試みられた。社会情勢の悪化に伴う販売台数の減少で、製造車種も合理化を迫られた。Jaramaはついに生産ラインから外されてしまった。

  • 1974 - 1977

    1974年のトリノモーターショウで、ベルトーネはP300のメカを基盤とした新たな研究モデルを提案した。Bravoはボンネットおよびブートリッドに新しい加工を施したきついウエッジシェイプが特徴のセダンで、フロントとサイドウインドウには支柱が見えないように接合されるいる。完成度の高いUrraco P300のメカ部分をベースとしてランボルギーニ社はベルトーネとともに取り外し可能な屋根付きモデルを開発することを決めた。1976年ジュネーブのモーターショーで発表、Silhouetteは比類なきアグレッシブな車だ。SilhouetteはUrraco P300の3 リットル V8エンジンを260馬力へ強化し、後方中央部分に縦置き。ボディーはすべてスチール製だ。

    製造販売の問題解決のため、ランボルギーニ社の幹部は外部とのコラボレーションを求め、販売減少のため赤字経営に陥った同社の危機を回避しようと試みた。1976年BMW Motorsportとの画期的なコラボレーションが実現し、Jochen Neerpasch.の時代が到来した。契約は、リアミッドエンジンを設から始まり、スーパースポーツカーの設計をもとなうものだ。また、さらに問題を複雑にするために別件が介入した:オフロード車に関する軍事関係団体「MTI」(モビリティ・テクノロジーズ・インターナショナル)との契約後、当時の会社オーナーは、これまでサンタガタ工場で製造されてきたものとは全く異なる車両の設計と生産を始めることを決定したのだ。それは、過酷な地形でも高性能、高度なモビリティを誇るCheetahと呼ばれる真のオフロード車である。

    しかし、小規模工場であるランボルギーニ社にとって、この一大プロジェクトは大な投資を必要とし、様々な技術的、法的な問題によりは、Cheetah生産プロジェクトをあきらめざるほかなかった。プロジェクトは誕生前にすでに死んでしまったのだ。こうしてBMWとにコラボレーションも破滅してしまった。

  • 1978 - 1980

    1978年Espada生産が終了、続いてUrraco、1979年には遂にSilhouetteも生産を終えた。Wolf が設計を担当したCountachのVersione Sのみが生産ラインに残された。Wolf自身が誰よりも早く、Countachこそが究極のスパースポーツカーのシンボルとなると確信していたのだ。この車は、さらに加工され、よりアグレッシブに、外観も大胆な強化されていく可能性を持っていた。Gandiniはフォームにスリム化を図り、ランボルギーニ社は空気力学的なアクセサリーと最低必要される通気孔をのみを追加した。Wolf はSilhouetteの審美的設計を追求しようとし、ホイールアーチを広げ、特殊合金ホイールい5穴を施工し強大なピレリP7タイヤを取りつけた。さらにセンセーショナルな試みが続く。機能性というより外観美化のために巨大なリアスポイラーを設置。アグレッシブなカラースキームと相成り、Countachはショーマンシップを発揮しさらなる外観のアグレッシブさを強化する。スポーツカー愛好家のための絶対的なトップカーとしての地位を確立した。

    ベルトーネはランボルギーニ社の力に確信を持っており、1980年P300 をベースとしたオープンカーモデルを公開する。Athonの誕生だ。この名前は太陽をたたえる賛歌に由来し、その名のごとく全く屋根部分を持たない完全なオープンカースタイルであった。しかしその後の発展には至らなかった。ランボルギーニ社は破産への道を歩み、ついに会社清算となった。1980年ランボルギーニ社は分解分裂を待つのみだった。

  • 1981 - 1983

    幸運にも、同社の作品の魅力、特に伝説となったブランド名、Countachの類いまれなる存在感は、会社買収をのぞむ者たちを集め、会社清算後すぐ、希望者が名乗りを上げた。裁判所はランボルギーニ社をセネガルの砂糖生産で億万長者となったスポーツカーファンのJean-Claude と Patrick Mimran兄弟に任せた。同兄弟は会社再建任務を全面的に Emil Novaroに任せ、事業を開始した。「Nuova Automobili Ferruccio Lamborghini S.p.A.」(新フェルッチョ・ランボルギーニ自動車会社)は1981年1月にスタートした。技術的な最初のセレクトは、同社のテクニカル部分を任せるエンジニアGiulio Alfieriの採用ありった。同社の全面的な支持と信頼を受けたデザイナーによって、あたらなランボルギーニが1981年3月ジュネーブのモーターショーで発進した。新型Miura、後方に巨大はウイングを備えたCountach S、重厚なオフロード車CheetahはFMCにより法的な脅威から逃れるために広範囲に変更されLMとなって展示された。しかし、ランボルギーニの新しい展開の最も明確確実なサインは、Jalpaの初公開であった。

    Mimran家による資本の注入で、Sバージョンのフェンダーとタイヤ以外は1973年から本質的に変化しないままであったCountachの改良に本格的にとりかかることができた。アルフィエリは、伝統的な12気筒エンジンを4.7リットルまで増加、375馬力への強化させた。それによって、単にタイヤと空力ために犠牲となったパフォーマンスの卓越性を取り戻したのだ。これがCountach 5000である。ただし、外観的にはS バージョンの4リットルモデルと見分けがつかなかった。Mimran兄弟は、当時としては画期的な、高機能のオフロード車の開発を推進することを決定した。1982年エンジンがコクピットの前方に移動し、LMAが誕生した。LMAは'Lamborghini Motore Anteriore' または 'Lamborghini Militare Anteriore'のイニシャルだといわれている。莫大な経費をかけてオフロード車の開発がすすめられLM004が誕生した。7リットルの排気量をもつ強力なフロントエンジンが搭載され、最高速度は時速200キロの壁を超越した。Pirelli社はアスファルト、砂地、アフリカの砂漠などいかなる地層でも高性能を発揮するタイヤの開発でランボルギーニ社とコラボを続けた。Pirelli Scorpionの開発である。

     

  • 1984 - 1986

    車のテクニカル部分の改善もなされていた。1985年ジュネーブのモーターショーのランボルギーニ社のブースでは、Quattrovalvoleが発表された。Alfieri は初代は22年前にさかのぼる同社の歴代のエンジンを深く検証し、馬力を向上させるため排気量の改善に着手した。気筒あたり4バルブと新ヘッドの採用のおかげで、エンジンは、5167立方㎝の容量と7,000回転455馬力を実現し、新型Countachのパワーに立ち向かうものはもはやなかった。

    巨大なランボルギーニ社のオフロード車がようやく製造されることになった。1986年のことである。LM002はCountach と同じ12気筒エンジンを搭載しており、全プロトタイプの途方もない7リットルエンジン利用というアイデアは破棄された。Mimran兄弟と Emil Novaroによる再建事業のおかげで、新生ランボルギーニは確実な基盤を築いたようであった。1987年CountachとJalpaの販売向上で、経営は改善されていた。その一方でLMのオーダー受付を開始し、同シリーズの進化に向けての作業がはじまっていた。その時期すでに、Countachの後継になる運命を担初期のプロトタイプ132型が出回りはじめていた。1987年はまたJalpaベースの車の開発作業も開始された。それは、上部が布上で通常のTargaタイプとは違うものだった。Jalpa Spyderと名付けられたこの車はSpeedsterとも呼ばれた。プロトタイプの製作は行われたが、技術的な問題でそれ以上の発展はなかった。

  • 1987 - 1990

    1987年4月23日米国のクライスラー社がNuova Automobili Lamborghini S.p.A.を買収。アメリカ人たちは早々にサンタアガタでの業務を開始、集中的な作業が始まった。今回は大規模自動車産業との密着したコラボレーションが始まったのだ。初期のPortofinoのプロトタイプのような失敗もあったが、展望は楽観的と思われた。Quattrovalvoleシリーズは631台を生産し1988年に終了。それまでに複合材料の研究を重ね、Evoluzioneと名称されたスペシャルCountachが誕生し、このプロジェクトの将来性を示した。しかしEvoluzioneもその後の展開を見ることはなかった。

    1987年末、フランスのF1チームLarrousseは60-70年代のフェラーリ最高のデザイナーであるエンジニアMauro Forghieriを推薦し、ランボルギーニ社と協力して新しいエンジン開発を提案した。クライスラーの承認を得て、Forghieriは法規定最大値のV12、3.5リットルの容量を誇る新たなエンジンを開発した。それは1988年4月一般公開された。 

    1989年は期待外れの1年で。その原因はフランスチームにあった。より向上していくための経済的組織的介入が不足ていたのだ。新エンジンは以前として高い可能性を示しており、それを有効利用しない手はなかった。ロータスのような優秀なチームが時期シーズンようにこのエンジンを使用したいといってきたのだ。

  • 1991 - 1993

    このような2チームから望まれた新しいエンジンのおかげで1990年の経営は非常に輝かしいものであった。Bernardは英国グランプレミオで4位に入賞。スズキは6位であった。ハンガリーグランプレミオでは、ランボルギーニ社のエンジンを搭載した車でWarwick (Lotus)、 Bernard (Larrousse)、 Donnelly (Lotus)が、それぞれ5,6,7位に入った。さらにスズキは日本グランプレミオで上位3位に入賞。表彰台に上がる栄光を手にしたのだ。ランボルギーニ社のエンジンがこれまでこのような上位につくことはなかったので、非常に画期的な出来事であった。Forghieriの輝かしい業績にも関わらず、アメリカのオーナー社の関心は薄く、それは車の販売実績の低下につながり、1991年は赤字に終わり、F1からの撤退決定という結果を招いた。現在、この美しいシングルシーターは、サンタアガタ博物館に展示されている。

    一方で、ランボルギーニ社は、一般道向けのモデルの更新を実質的に推進していた。創立25周年を記念してCountach特別仕様車が発表された。25周年記念という特別なアニバーサリーは、輝かしい実績を築いてきたこの車の最後を飾るにふさわしいイベントであった。この特別仕様車は熱狂的に迎えられ、657台の販売実績を打ち出した。1990年Countachの後継車が発表された。新型132はDiabloと呼ばれ、16世紀凶暴な闘牛として名をはせた雄牛から命名された。期待通りの車である。Countachの後継車は普通の車では務まらない。極端で壮大な、力強く異端でなければならなかった:Diablo は492馬力の5.7リッターV12エンジンを搭載。あらゆることが壮大であった。この車の設計はLuigi Marmiroli.が担当した。1990年Diablo は2輪駆動として発表されたが、その時点ですでにランボルギーニの特徴となる全輪駆動システムへの変換が準備されていた。1993年3月ジュネーブのモーターショーで発表されたこのバージョン車は、Diablo VTと呼ばれ、VTとは 'Viscous Traction'の頭文字であり、フロント・アクスルとリアアクスル間の粘性結合が存在するところから命名された。

  • 1994 - 1997

    その後、理由も明確にしないまま突然、クライスラーは未知のインドネシアの投資家グループにランボルギーニ社を売却すると宣言した。1994年1月21日オーナー権の譲渡が行われ、ランボルギーニ本部は非常に不安定な時期を過ごすことになる。このような問題にもかかわらず、Diabloはより進展し、同車ベースの新モデルが作り出され、一部のクライアントに大好評を受けたものもあった。それが1995年発表のSVである。軽量化と馬力強化されたモデルで、コンフォートよりはドライブ感に重点が置かれたタイプの車である。Targa のようにオープンカーとなるVT Roadsterは発表後すぐに人気を博し、特にアメリカでは好調な売れ行きであった。これらのモデルをさらに発展させてスペシャルバージョンとしてSE, Jota, Monterey, Alpineをはじめ多くの新モデルが生まれた。1995年デザイナーのGiorgetto Giugiaroは新型Calàを専門誌に発表した。Jalpaに代わるV10 エンジンを搭載した新車として誕生した車だ。非常に興味深い車であったが、研究所内のプロトタイプの域を超えることはなかった。

    1996年 国際リーグと同じ規定でをもった欧州向け同一ブランドチャンピオンズリーグが開会した。チャンピオンリーグ参加に当たっては、Diabloのサーキットバージョンが用意された。 SVRである。1999年のはSVRの公道バージョンが発表される。(83台のみ製造のGT限定版、超スポーティーな'stradale'である)サーキットバージョンからはさらにリーグ用の新型車が生まれた。(GTRだ。590馬力6リットルのエンジンを搭載し、32台限定シリーズで生産)この時期Luigi Marmiroliは個人的な理由でランボルギーニ社を退社、後継に新しいエンジニアが選ばれた。Massimo Ceccaraniだ。新しいモデルの開発にあっては、それに見合った投資が櫃よとされる。Diablo誕生からすでに7年がたっており、スポーツカー業界では、長すぎる期間が経過したということだ。

  • 1998 - 2004

    ランボルギーニはAUDIなどの自動車産業に技術的なコラボレーションを求めた。アウディに対する最初の提案内容は、同社のフラッグシップ、A8に搭載される8気筒エンジンの供給を受けて、これを将来の「ベイビーランボルギーニ」のパワーソースとするものだった。アウディのエンジニアは、ドイツの本社に戻ると、ランボルギーニの現状(新マネージメント体制、高いプロ意識に裏打ちされた研究開発)を高く評価する報告書を提出した。AUDIとランボルギーニ社間の最初の合意書は1998年6月12日にサインされた。インドネシア投資家の全株式がAUDIに譲渡される契約書は同年7月27日に提携された。

    最初のニュースは2001年であった。Diabloの後継車 Murciélagoの発表である。この新車も又、凶暴な闘牛の名前から命名されていることは言うまでもないだろう。スペイン語での意味はダークな魅力が漂う「コウモリ」である。この壮大な新車は夜を駆け巡るようだ。パワーはますます強化され、580馬力に至り、スピードや走り、加速度も向上した。車全体のクオリティー感が上昇。それは、仕上がりが最後のDiabloで達成したものよりさらに向上したことに由来している。自動車市場では好評で、予約から納品までかなりの期間を要するのだが、それでも製造されるモデルは随時売れて行った。 

    Murciélagoは単独で残ることを運命づけられた車ではなかった。:すでに数点のバリエーションが検討されていたのだ。最初のもの、そして疑いもなく最も華麗なものは、2003年のデトロイトオートショーに登場したコンセプトカーの「バルケッタ」だった。単に屋根が取りはずされMurciélagoではなく、車全体が更新されていた。特に、いリアボンネットとサイドポストの加工は非常に興味深い。

    2003年ジュネーブのモーターショーでさらなるビックニュースが打ち出された。Gallardoである。このモデルも闘牛の名前から命名された。Gallardo (pron.: gajárdo)だ。Gallardo は「日常的な使用」のためにも適した高性能スポーツカーとして設計された。この二つの全く異なる目的を同時に満足させるため、ランボルギーニのエンジニアは真のランボルギーニ車に期待される快適さと息飲むようなパフォーマンスのために必要な要件を遵守することを試みたのだ。エンジン、トランスミッション、シャシーとボディワーク、サスペンション、ブレーキ、電子機器などは、すべてこの目的をかなえるためにセレクトされた。全長4.3メートル、2シーターの高性能車が誕生した。サーキットでも市街、郊外を問わず公道での長距離運転も快適にこなすことができる。エンジンは10気筒V型50バルブ、500馬力。永久直結式前輪駆動で時速300キロ以上を達成。

    ランボルギーニ社設立40周年記念にあわせ、Murciélagoのスペシャルエディションが台数限定で提供された。それが、Murciélago 40° Anniversario(40周年記念Murciélago)だ。2003年製造で50台限定。またカラーもVerde Artemis(青緑)限定。欧州、アメリカ、二本限定で販売された。

    デトロイトで2003年に発表されたコンセプトカーは、業界専門家をはじめイタリアスーパーカーファンの間で大きな関心を集めた。Murciélago Roadster は2004年ジュネーブのモーターショーで真の生産車として公式デビュー。ランボルギーニ社は同年後半には製造ラインでの作業を開始した。Roadster バージョンはMurciélago Coupéの極端かつ排他的なキャラクターをさらに強化し、新しい時代のランボルギーニの本当の "アイコン"となった。エンジンはもちろんランボルギーニの12気筒V60、6192 cc 、580 HP (426 KW)。パワーは7500回転/分。エンジンL.I.E.の電子管理システム搭載により最大トルク650 Nm 、5400回転/分を記録する。チェンジギアはCoupéと同じくマニュアル6速トランスミッションオプションとして、6速オートマチックバージョンまたはギアバージョンも用意されているロードスターは、ビスカス・カップリングを使用するランボルギーニのフルタイム4WDであり、 リアとフロントにリミテッドスリップデファレンシャル(リア 45%、フロント 25%)が採用されている。

    2003年フランクフルトのモーターショーでは、初めて、Murciélagoをベースとしたサーキットレース用バージョンが発表された。この車はMurciélago R-GTと命名された。Reiter Engineering とAudi Sportとの共同開発で生まれた車だ。このような構想に対し、サンタアガタのランボルギーニ社は、国際レベルのカーレースで通用する車を臨むクライアントにできるだけ応えたいと願った。ランボルギーニのクライアントは、Murciélago R-GTでFIA GT欧州選手権やAmerican Le Mansシリーズのような様々なレースに参加出来るようになった。

    2005年7月世界に向けて発表されたが、250台げんていせいさんのランボルギーニGallardoのスペシャルシリーズでGallardo SE (Special Edition)と呼ばれる。Gallardo SE は独特のツートンカラーのペイントで外観に特徴があり、内装もよりスポーティになり、より優れた性能品質もその特徴になっている。
     

  • 2005 - 2007

    2005年8月ランボルギーニ社は、イタリアのMontereyコンテストおよびカリフォルニアで開催されたPebble Beachエレガンスコンテストに、初めてLamborghini Concept S.のプロトタイプを出展。同年のジュネーブのモーターショーでもデザイン研究作品として公開。ランボルギーニのブランドが誇る独創的で類いまれなる究極のデザインカーだ。リュック・ドンケルヴォルケがサンタガタ・ボロニェーゼのランボルギーニ社スタイル研究所(Centro Stile Lamborghini)で作ったもので、過去のシングルシーターレーシングカーのクラシックモデルにインスピレーションを得たものだった。この研究デザインへの関心は驚くべきものだった。 そこでプロタイプを作成し、実際の運転を体験してもらい、クラインとの感想を集めることになった。

    2005年9月のフランクフルト・モーターショウで発表されたa Gallardo Spyderは東京、ボローニャ、LA、デトロイトのの展示会でも女王のごとく歓迎された。Gallardo Coupé MY 06や Gallardo SEのようにGallardo Spyderもエンジン、トラスミッション、機能性に大きな革新がもたらされた。搭載された10気筒 4961 ccのエンジンは520 HP (382 kW) 8000 回転/分のパワーが確認できた。チェンジは6速(オプションでオートマチックまたはEギア)で瞬時の加速が可能(第1ギアは以前のものと比べて27%向上、第2で13%、3,4,5速で6%、6速でも3.5%向上した)よりダイナミックなパフォーマンスをたのしめるようになった。ステアリングもよりダイレクトに正確になり(20%向上)新しいサスペンションも適正化された。ばねが一層固くなり、キャリブレーションもよりスポーティに。その結果、アンダーステアが減少、改善された「音」も快適だ。Gallardo Spyderは決してCoupéのオープンカーバージョンというだけではない。完全に改新され、心地よいデザインと屋根部分の開閉システムやボンネットも素晴らしい。

    2006年1月、ランボルギーニ社は"Lamborghini Miura Concept"をもって新年をむかえた。その時期誕生40年を迎えようとしていた伝説と化したMiuraを現代的に解釈し改良した新型車だ。 

    この車の新生は、コンセプトカーのレベルではあり、世界的にも有名なイタリア人カーデザイナーであり、Audiのデザイン部長であるWalter de’ Silvaの鉛筆を才能によるところが多い。ちょうどそのころ、ランボルギーニのデザイン責任者に就任した。De Silvaはこれまでに「正式な」真実を裏切ることなく、同時にすべてのスタイル要素を再設計してきた。車の概観ラインはオリジナルモデルの素晴らしい純粋さを保っている。デザイナーの仕事はボリュームやプロポーションを強化するため表面の改善や余分な細部の除去に焦点が当てられた。

  • 2008 - 2013

    2010年ランボルギーニ社の並外れた能力を実証するSesto Elementoのコンセプトと技術が発表された。それはあらゆる部分に炭素繊維技術を採用するというものであった。その後、 サーキット使用のみを目的とした限定20台が製造される予定だ。 
     2011年新モデルV12、Aventador LP 700-4がデビューした。比類を見ない独特のデザインや革新的なテクニカルパッケージにより、スーパースポーツカーの世界の新たなベンチマークとなった。 

    同年3つのスペシャルシリーズが導入された。Gallardo Bicoloreと Gallardo Tricoloreは、イタリア建国150周年に合わせて、Lamborghini Blancpain チャンピンシップを走るSuper Trofeoと後輪駆動のSpyder LP 550-2にインスパイアし た Super Trofeo をSuper Trofeo Stradaleとして発表した。

  • 2014 - 現在

    2014年ジュネーブのモーターでのHURACÁN LP 610-4の国際的デビューに合わせて、ランボルギーニ社が打ち出す車の新時代が到来した。デラックスなスパースポーツカー部門全体が注目を浴びる時代だ。 

    2015年Huracánシリーズは成長を続け、さらに進化した新モデルが発表された。オープンエアでの運転するというライフスタイルを向上させために設計されたSpyderである。RWDはテクノロジーを追求し純粋に「ドライブをたのしむ」ために構築された車両である。

    2015年はAventadorの年といえよう。Aventadorのは見事なまでの2つのモデルがあり、Aventador SVはよりスポーティであるためのランボルギーニのDNAを秘め、Aventador SV Roadsterは優雅な機能性の追求とRoadsterたるべき自己主張を前面に打ち出している。

    2016年は宇宙工学にインスパイアされたスペシャルシリーズHuracán Avioの年だ。と同時にランボルギーニ社創始者の生誕100年という記念すべき年でもある。彼の名誉をたたえ作り出されたのが、完璧を極めた真の傑作Centenarioだ。革新的なデザインと驚くほどの機能性を持ったリミテッド・エディション(Coupé 20台とRoadster 20台)。世界中のコレクターの羨望の的となったスパースポーツカーだ。

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