ランボルギーニの歴史:1972-1980

1972-1980

フェルッチョ・ランボルギーニが去った後も、会社の事業はレギュラーペースで続けられた。 1972年には、モデルラインナップは、P250 ウラッコ、400 GTハラマ、400 GTエスパーダ、P400ミウラSVがフル体制で生産された。 それまでは正直言って芳しくなかった販売を強化するべく、ハラマに365馬力のエンジンを搭載し、ハラマ Sと名づけられた。

1972年、立ち上がりに減速を余儀なくされていたウラッコが、ついに生産に移される。 ほとんど宿命的に、同年10月にはSバージョンが追加された。 Sバージョン投入の目的は車両の性能を引き上げることではなく、大急ぎで生産に移すことでおざなりにされたクオリティを全体的に向上させることであった。

カウンタックのプロトタイプの生産に向けた開発プログラムが進められる中、エスパーダがさらに修正、改良されて、1972年10月にニューシリーズ、セリエIIIとして発表された。このセリエIIIには、新しいホイールに加えて、ボディ全体、ダッシュボード、インストルメントパネル、さまざまなコンポーネントのディテールにも改良のメスが入れられた。 この最終モデルは、卓越した4シーターカーの最高の進化状態を表すものであり、今でも、ランボルギーニのファンから多大なリクエストがある。 エスパーダの生産台数は1226台の大台に乗るだろう。トップレベルの価格を持つモデルであり、ランボルギーニが少数製造メーカーであることを考えれば、非常に大きな数字である。

カウンタックの生産モデルには、LP 400のコードネームが採用された。400とは、コックピットの後ろに縦置きされたV型12気筒エンジンが、理想的な4リッター(3929cc)の排気量に増加されたことを意味する。 このモデルが1973年のジュネーブモーターショーでデビューした。

カウンタックの本格的生産は1973年末に開始。鮮やかなライムグリーンのモデルがパリサロンで世界デビューを果たした。このモデルは、ランボルギーニ・ミュージアムで常設展示されている。 大きなフロント・シングルワイパーが採用された、最初のカウンタックだった。 1974年時点のランボルギーニのモデルラインナップは、カウンタック、エスパーダ・セリエIII、ハラマS、ウラッコS。

一方で、世界に変化が訪れようとしていた。 1973年の第四次中東戦争で引き起こされた石油危機が、石油供給の不安を煽った。 この結果、大量のガソリンを消費するスーパースポーツカーは、前世紀の遺物の烙印を押されてしまう。 言い訳のできないラグジュアリー品であり、地球上の限りある資源を浪費することは今や受け入れ難い、とされたのだ。 これは急進論であり、時の経過とともに姿を消すことになるのだが、当時、スーパーカーメーカーにとっては途轍もない障害となった。 スーパーカーメーカー市場のトップエンドに位置したランボルギーニにとって、過酷な一撃であり、事態に対処するために最善を尽くす必要があった。 ランボルギーニは、事の解決策として、ウラッコの新モデル2種を発表した。 これらは、P250ウラッコのスピンオフに他ならなかった。 ひとつは、またもやSOHCレイアウトのエンジンを搭載した2リッターバージョンのP200で、低排気量による税制措置に対応した。ハイパワー仕様の成熟した3リッターのP300。スーパーカーらしいDOHCエンジンを搭載し、パワーは250馬力に達した。

社会状況は悪化する一方で販売が減少。生産モデルの合理化に迫られた。

ハラマが実質的にラインナップから落とされる。一方で、1974年のトリノモーターショーでは、P300のメカをベースにベルトーネが魅力的なスタディモデルを提案した。 ブラボーと名付けられたモデルは、ウェッジシェイプのクーペでフロントおよびリアエンドに特徴的な処理を採用。また、フロントスクリーンとサイドウィンドーがピラーを表に見せることなしにつながれていた。 ランボルギーニはベルトーネとともに、デタッチャブルルーフ仕様のウラッコの開発に着手する。 1976年のジュネーブモーターショーに登場したシルエットは、紛れもないルックを持つ、攻撃的なモデルだった。 ウラッコ P300から流用された3リッター、260馬力のV型8気筒エンジンをコックピットの後ろに横置きミッドマウント。ボディとシャーシはすべてスチール製だった。

販売と生産上の困難のために、会社の状況が危うくなっていた。ランボルギーニの経営陣は、この状況を打開し、販売不振のために大半が休眠状態となっていた設備を活用するために、外部の協力を求めた。 最も実りのある提携協力が1976年に実現した。ヨッヘン・ニールパッシュ率いるBMWモータースポーツとの提携だった。 契約では、エンジンをコックピットの後ろにマウントしたスポーツカーの設計と生産を目指すもので、誰よりも多くの経験と好イメージを持つランボルギーニのコンセプトがベースになっていた。

だが、不幸にして他の要因が重なり、状況はますます困難になった。 MTI(モビリティ・テクノロジーズ・インターナショナル)をはじめ、複数の軍用オフロード車両のサプライヤーとも契約し、これまで製造してきたものとは全く異なったハイパフォーマンスカーの設計と製造に乗り出す決断を下したのだった。道なき道でも最高のモビリティを約束する本格的な軍用オフロード車両、ランボルギーニ・チータだった。 法律上、技術上の問題がいくつも重なり、結局チータが日の目を見ることはなかった。イタリアの小さな会社ランボルギーニにとっては、その投資があまりにも大き過ぎたのだ。 プロジェクトはスタートすることはなかった。ちょうど時を同じくして、BMWとの提携もなくなってしまった。

エスパーダの生産が1978年に終了。続いてウラッコ、1979年にはシルエットがラインナップから落とされた。この時点で、ランボルギーニが生産するのはカウンタック Sのみ、ウォルフが考案したモデルだ。 ランボルギーニには、カウンタックSという並外れたモデルの生産以外に残されたものはなかった。事業は縮小する一方であったが、それでも、会社はこのモデルのおかげで生き延びた。 1978から1982年にかけての間に総合して237台が納車された。 比較のためにあげておくと、1973年から1977年にかけてのノーマル版のLP400の生産は158台というものだった。

ベルトーネは依然としてランボルギーニという会社の可能性を信じていた。1980年、彼はP300をベースとして、完璧なオープンカーのスタディモデルを提案した。アトンと命名された。 これは「太陽の讃歌」を意味した。完全なオープンカーでルーフレス仕様のプロトタイプにふさわしい名称だった。だが、このモデルが生産に移されることはなかった。 ランボルギーニは倒産、そして清算に陥る。 1980年の時点で、ランボルギーニの命は尽きたと考えられていた。